10/22/2012

Enough

十分であること、足りている。満足できている。

昨夜、後輩兼友人と下北沢で恒例となった週末土曜の居酒屋。

何故だか漠然とではあるが、疑問を投げかけたくなる様な出来事がたくさんある

世の中で自分は現在をどう生きているのかをゆっくり考えながら酒を飲んでみよう

と思った。



テレビのスイッチを押せば、見たくもない番組や情報がこれでもかと目に押し付け

てくる。笑いたくもない時に笑う必要何かない。

本当に必要な情報や、これから先、何を考えていかなくちゃいけない事を知る

きっかけや機会があまりにも少なすぎる気がする。テレビは本当に見なくなった。



世の中は、いや、少なくとも僕の周りは、本当に楽しい事が多い。

それは自分が一歩外に足を踏み入れ、アクションをおこせばの話だ。

けれど、僕は最近行動する事を減らしてみている。

それは楽しい事が多すぎるからだ。

そんなに楽しい事ばかりって必要なのだろうか。

もちろん、それに超した事はないけども、

楽しい事が多すぎて、小さな幸せに気付けなくなる様な気がして嫌だ。


人と人の繋がりにおいて、こんなにも安く、時には悲しく残酷に感じる事が

多すぎる事はなかった。

ひとは、何百人いる知り合いの中で、何人友達と呼べる人がいるか、

そしてその中で何人仲間がいて、何人が自分を救ってくれるのか。

あまりにも軽薄なセッションに少し疲れたのかもしれない。



東京は楽しい事がありふれた場所だ。いろんなカルチャーやシーンは

間違いなく毎日生まれている場所だと思う。



けれども、ふと僕は、例えば土が愛おしくなったり、山が見たくなったり、無性に

汗をかきたくなったり、山菜をとりにいったり、美味しい野菜やお米を食べたくなる。



僕が生まれ育った山形は本当に田舎だ。東北でも間違いなく一番発展途上な県だ。

しかし、それは自治体レベルの話であって、何事も本当の意味を学ぶべき事は多く、

そしてなにより大地の恵みを存分に味わう事ができる所だ。

人と人とが繋がりを大事にし、助け合う事が当たり前に根付いている。




そんな田舎で育った自分は、東京のポッシュでクリエイティブがありふれた都会生活で、

泥は見えなくても、見えない泥が存在するtraditionでいたいと思ってしまっている。

とにかくそれは個人レベルで言えば本当に自然なはなしだ。




つや姫と言う山形のお米がある。

2年前から販売されている本当に美味しいお米だ。

多くの農家が品種改良に賛同し、出来た素晴らしいお米だと聞く。



きっと地味という言葉がダサイとか言われる時代なのかもしれないが、本当に自分が

信じた事が地味であるならば、それは一見地味かもしれないが、中身は相当派手なのだ。




そんな事を考えながら、週末の土曜、有意義な瞬間であった。